ポスター

トスカに扮するサラ
ナダールによる同じシーンの写真

1900年(明治33年)白馬会展会場
ミュシャのポスターも展示していた
右上に『トスカ』のポスターが見える。
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トスカのデッサン

アメリカ公演のポスター
1910年

20才頃のサラ・ベルナール
写真家のメナダールが1864年に撮影

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 ミュシャは、ルフェーヴル・ユティル・ビスケットの「イタリア」をテーマにしたパッケージで、『ローマ』の背景に『ラ・トスカ』終幕の悲劇の舞台となった円形のサンタンジェロ城を描いた。
 サンタンジェロ城は、2世紀のローマ皇帝霊廟がその後教皇領の牢獄、要塞と用途が変遷し、現在は博物館になっている。
 「サンタンジェロ(聖天使)」という名称は、6世紀末のローマにペストが蔓延したとき、城の上に大天使ミカエルが現われてペスト流行の終焉を知らせたという伝説による。
 サンタンジェロ城を描いた『ローマ』(部分 上左)と、パッケージ・ラベルの全体(上右)。上から『ナポリ』、『ヴェネチア』、『ローマ』。
 パッケージラベルの『ナポリ』の絵が上下さかさまになっているのは箱に巻きつけて使用するため。ミュシャの絵に人気が出て鑑賞用に販売したラベル(右下)では『ナポリ』は逆になっていない。

ルフェーヴル・ビスケットの
パッケージ・ラベル
 1900年頃
下は販売用

オペラ 『トスカ』 のポスター

 プッチーニのオペラ『トスカ』にも優れたポスターがある。
 左側はメトリコヴィッツ
(Leopoldo Metlicovitz 1868-1944)のポスター。 ミュシャ、ナダールと同じシーンのトスカを描いている。
 右側は、恋人カバラドッシを救うためにトスカが警視総監スカルピアを殺害する第2幕のクライマックスの場面を描いた
ホーエンシュタイン(Adolf Hohenstein 1854-1924 )のドラマチックなポスター。(カバラドッシは殺され、スカルピアに騙されたと知ったトスカはサンタンジェロ城からテヴェ川に身を投げて自ら命を絶つオペラのポスターだが、両者ともサラ・ベルナールの舞台を下地にしている。
 『トスカ』のオペラ化を企画しプッチーニに作曲を依頼したジュリオ・リコルディ(Giulio Ricordi 1840-1912)が、1900年1月のオペラ初演のために2人の画家にポスターを依頼した。
 ミラノの楽譜出版社リコルディは多くの新作オペラをプロデュースし、優れた芸術ポスターとポスター作家を世に送り出した。リコルディ社はヴェルディ、ドニゼッティ、プッチーニらイタリア・オペラ作曲家の楽譜の独占販売権を今も持っている。

『トスカ』 1899年
L.メトリコヴィツ

『トスカ』 1899年
A.ホーエンシュタイ

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ミュシャ・コラム
「寄せ集めのミュシャポスター

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ラ・トスカ           1899年 リトグラフ

歌に生き 恋に生き
 トスカ』は、『歌に生き 愛に生き』、『星はきらめき』のアリアで大ヒットしたプッチーニ(Giacomo Puccini 1858-1924)のオペラ『トスカ』が有名ですが、オリジナルはビクトリアン・サルドゥ( Victorien Sardou 1830-1908)が1887年にサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 1844-1923)のために書き下ろした悲劇『ラ・トスカ』で、ナポレオン戦争時代のローマを舞台にしています。
 サラが何度も演じて大好評だった芝居をもとにプッチーニが3年をかけて作曲し、1900年にオペラが発表されました。
(オペラを企画したリコルディは最初ヴェルディに依頼したが結末の扱いで意見が合わず、プッチーニが作曲した。)
 
ミュシャのポスターを、『ラ・トスカ』ではなく、『トスカ』と一般に呼んでいるのもオペラ成功の反映でしょう。
サラ・ベルナール劇場
 1898年、サラ・ベルナールはそれまで持っていたルネサンス劇場を財政難のため手放します。翌1899年にオペラ・コミック劇場を借りて「サラ・ベルナール劇場」と改称し、『ラ・トスカ』の再演で幕を開けました。ミュシャのポスターはそのときのものです。
 『ラ・トスカ』は上演回数 300回という記録的な成功を収め、ルネサンス劇場にくらべて客席数が2倍になった新しい劇場はサラ・ベルナールに莫大な収益をもたらしました。
サラ・ベルナール
 『トスカ』がオペラの最高傑作とされる一方で、『ラ・トスカ』が上演されることは現代ではほとんどありません。
 サルドゥの『ラ・トスカ』は、物語の歴史背景や登場人物の複雑な関係をセリフで長々と説明する常套的で凡庸な作劇術でしたが、プッチーニは 人物の登場の仕方や短い会話の中で人物の状況、関係を暗示するなど工夫を凝らし、ドラマチックで緊迫感のある作劇によって観客を物語の展開に引き込み、オペラを成功させたのです。
 名作ではなかったサルドゥの『ラ・トスカ』が記録的な大成功をしたのは、観客の心を奪うサラ・ベルナールの演技、とくに朗誦
(節をつけて語る詩の朗読のようなセリフの言いまわし)と身振りの魅力にありました。リアリズム演劇の現代では「大げさ」、「時代遅れ」として失われましたが、「彼女の唇から出るものはすべて完璧」(アルフレート・ケール 劇評家・ジャーナリスト 1867-1948)というサラ・ベルナールの口跡と演技がサルドゥの冗長な戯曲を 観客を魅了する舞台に変えたのです。
ナダール写真館
 ポスターに描かれている場面は第一幕。サラ・ベルナールは物語の舞台となった1800年頃の衣装を身につけています(物語は1800年に起こった実話を脚色している)。同じ場面、同じ衣装、同じポーズで、写真家のナダール
(Nadar 1820-1910 本名はGaspard-Felix Tournachon)もサラ・ベルナールを撮影し、メトリコヴィッツはオペラのポスターを描いています。
同じ場面のため、「ナダールの写真をもとにポスターを作製した」とする間違った解説がありますが、それぞれの作品やデッサンを見ればミュシャもメトリコヴッツもナダールも、それぞれ独自に演劇を理解してポスターや写真を制作しているのがわかります。同時に、サラ・ベルナールの舞台が能、文楽、歌舞伎にも通じる「型」を活かした優れた演技ということも類推できます。
 ナダールはいわば世界初のプロ写真家です。サラがコメディ・フランセーズに入ったばかりのまだ20才頃から彼女に注目して肖像写真を撮影しています。ナダールの名は、1874年に「第1回印象派展」が彼の写真館で開かれたことでもよく知られています。